同和対策事業
市域の同和地区に対しては、戦前から部落改善事業が実施されたものの、その内容は不十分なものであった。戦後は1948年(昭和23)5月に五月会が結成され県や市に対する要求を開始、このころから市は一般施策のなかで同和関係事業を実施しはじめ、五月会が尼崎市同和事業協議会へと改組した1953年には地区改善事業費を予算計上するにいたった。国レベルでは1961年に同和対策審議会設置、1965年の答申を経て1969年同和対策事業特別措置法が施行された。市でも同対審答申後の1967年4月には尼崎市地区改善対策審議会を設置、1968年4月には地区改善対策室を設置するなど事業を本格化した。1970年1月17日、地区改善対策審議会は市に対して答申と要望書を提出し、これと前後して同和地区の実態調査も実施された。答申は同和問題に対する行政の責任を明確にし、環境整備・福祉保健・産業労働・教育の4点にわたる施策の推進と、それに向けた行財政体制の整備をうたっており、市は答申を受けて1970年4月に同審議会を尼崎市同和対策審議会へ、地区改善対策室を同和対策室へと改組し、また新たに同和教育指導室を設けた。1971年以降は各地区に総合センターが設置され、地域における同和問題解決の拠点として位置付けられた。その後、国の法制度の変化に対応して市同対審の答申を受け、生活環境・施設の改善、就労・教育問題の解決、心理的差別の解消、地区住民の自覚・自立の促進といった諸課題の解決に向けた事業が展開されている。なお尼崎市同和事業協議会はのち数度の改組を経て1982年6月に社団法人尼崎同和問題啓発促進協会として発足し同年7月1日法人認可、2002年7月には社団法人尼崎人権啓発協会と改称し、同和問題の解決に向けた取り組みを進めている。
参考文献
- 『尼崎部落解放史』本編・史料編2 1988・1993 尼崎同和問題啓発促進協会