1850年代

嘉永5年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  年表:

  世紀: 18世紀 - 19世紀 - 20世紀

  10年紀: 1820年代 1830年代 1840年代 - 1850年代 - 1860年代 1870年代 1880年代

  各年: 1850年 1851年 1852年 1853年 1854年 1855年 1856年 1857年 1858年 1859年

  1860年代以降の年表は、各年(1860年~)に記述。


  1850年から1859年までの10年間を指す。

1850年代の年表

  • 1850年(嘉永3)
    • 2月28日 - 名塩村の村役人と紙漉屋年番行司は、尼崎藩交易所の名塩紙専売化による差支えの有無問い糺しに対し、過去の専売化失敗例をあげて差支える旨の口上書を提出した(専売制)。
    • 7月 - 尼崎藩は摂海防備の費用支弁を名目として太平講を発足させた。
    • 8月 - 尼崎藩領の5人の大庄屋が、組内村々からの難渋申し出により太平講の講銀掛け続けを容赦してほしいと願い出た。
  • 1851年(嘉永4)
    • 1月21日 - 尼崎藩の交易方掛り役人が赤穂郡上郡村の陣屋へ赴き、同地の商人佐藤要輔ら6人に晒木綿の藩専売実施の手当金の出金を頼んだ(専売制)。
    • 1月22日 - 佐藤要輔らの商人は、晒木綿専売の交易懸屋などを引き請けた(専売制)。
    • 6月8日 - 佐藤・西脇ら上郡の晒木綿掛りの商人たちは、木綿買集め資金調達のために銀札の発行許可を尼崎藩に願った(専売制)。
    • 6月14日 - 佐藤・西脇ら上郡の晒木綿掛りの商人たちが木綿買集め資金調達のために銀札発行許可を尼崎藩に出願したことに対して、5か年に限って銀札発行が許可された(専売制)。
    • 7月10日 - 尼崎藩は、名塩村の救済を名目として、前年とは仕法を変えて紙漉仲間に名塩紙専売化による差支えの有無を問い糺した(専売制)。
    • 7月30日 - 名塩村は、紙漉仲間の大多数が名塩紙専売化に反対したことから、尼崎藩の専売仕法の辞退を申し出た(専売制)。
    • 8月21日 - 参府途上の尼崎藩主が、尼崎交易所の廃止を命じた。
    • 8月27日 - 尼崎藩の家老高木孫兵衛は上郡陣屋まで出向き、交易方による晒木綿専売の廃止を掛り商人たちに告げた(専売制)。
    • 9月16日 - 晒木綿の専売が、藩の勝手方の下で木綿掛に任命された上郡の商人を中心に続けられることになった(専売制)。
  • 1852年(嘉永5)
    • 2月27日 - 上郡で木綿専売にともなって発行された銀札の引替所が開店した。
    • 2月 - 佐藤要輔ら専売資金の銀主商人たち4人は、藩交易方廃止にともなって国産木綿晒の元手金200両ずつを藩に永納し、永代の苗字帯刀・城内帯刀などを許された(専売制)。
    • 8月 - 蓬川流末東新田南側の葭床場について、西難波村と開発人の菟原郡三条村左八郎兵衛との間で開発を了解する取替せがかわされた。同年10月浜田村と左八郎兵衛との間でも取替せ。
  • 1853年(嘉永6)
    • 9月 - 尼崎から京都への生魚上積仲間は、城下の魚問屋5軒に今井船の貸付け期限を10か年とすること、新規の生魚上積業者は差し止めることを頼んだ。
    • 10月 - 中在家町の山田屋卯左衛門は、川魚問屋の免許を受けるにあたって魚市問屋の営業を妨げない旨の請書を尼崎藩に提出した。
    • 11月 - 尼崎藩主松平忠栄は、藩の勝手向取締り徹底のため家老に命じて自らの日常の節倹ぶりを家中に申し聞かせた。
  • 1854年(安政元・嘉永7)
    • 4月 - 尼崎藩は、積立割済講を依頼する旨の藩主の演説を村々へ伝達した。
    • 5月 - 西御見立新田の開発人三条村八郎兵衛など3人は、地床・作徳米を三等分する旨の証文をとりかわした。
    • 9月18日 - プチャーチンのひきいるロシア艦の1隻が尼崎沖に停泊し、月末ごろまで小船で尼崎の港口および新田沿岸を測量調査した。
    • 9月18日 - 大坂城代が諸藩に大阪湾沿岸の警固持ち場を通達し、尼崎藩は兵庫から天保山北浦までの担当を命じられた。
    • 11月4日 - 大地震(安政東海地震)のため尼崎城下で町家約30軒が全壊、約100軒が大破し、城の御殿・櫓なども破損した。大地震のために未新田・基新田の地面が沈み、囲堤までが流失して多くの場所で耕作できなくなった。
    • 11月5日 - 前日の大地震(安政東海地震)に続き、この日も大地震(安政南海地震)があり、尼崎城下約200軒が全壊し大破は数知れず、津浪で町家が流失し、築地町中在家町を結ぶ戎橋や渡し船などが破損した。
    • 11月 - 尼崎藩は、大坂出火および藩士の急出馬のさいに村々から人足を呼び集めるため、合図の太鼓などを定めた。
  • 1855年(安政2)
    • 6月2日 - 摂津・河内両国の1,086か村は、在々絞り油屋の菜種・油・油粕の正当な売買を大坂町奉行所に訴えた。
    • 9月 - 大坂町奉行所は、尼崎・堺魚商人の大坂市中大道での生魚せり売り停止を命じた。
    • 10月10日 - 海防掛勘定奉行の川路聖謨が、大阪湾沿岸巡視の途中尼崎に宿泊した。
  • 1856年(安政3)
  • 1857年(安政4)
    • 3月 - 魚問屋仲間は尼崎藩主の日光代参御用金1,000両の上納を命じられた。直場屋はすべて正金で上納し、6軒は380両を他借して上納した。
    • 11月 - 大鳥圭介尼崎藩に出仕した。
    • 12月24日 - 岡部藩摂津領の農民が、藩の借用銀証文に郷印を強要した桜井谷陣屋の岡部藩郡奉行を襲撃する事件が起こった。
  • 1858年(安政5)
    • 8月28日 - 大坂雑喉場魚問屋は、尼崎魚市で買入れた魚荷を荷ない売りする者に印札を携行させることとした。
  • 1859年(安政6)
    • 3月 - 尼崎藩は、収納米2万9,900石をもって藩の入用銀仕送り方と借財整理など藩財政の改革全般を委せる約定書を6人の大庄屋と取りかわした。
    • 5月13日 - 儒者服部元彰は、尼崎藩主松平忠栄の諫諍役を命じられた。
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