国役普請
くにやくふしん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
17世紀すでに武庫川・猪名川の治水事業は、幕府勘定奉行管轄(のちに大坂町奉行管轄)の国役普請として行なわれた。1702年(元禄15)尼崎藩領村々は、領内の武庫川堤普請のために規定の人足賃銀を出した。1726年(享保11)、尼崎藩は有馬・武庫・川辺3郡の河川の土砂留大名として堤普請を担当するように命じられ、1750年(寛延3)には菟原〔うはら〕郡の小河川の土砂留普請の担当も追加された。1808年(文化5)さらに能勢・川辺郡のうちの猪名川筋が担当地域に加えられ、西摂・北摂一帯は尼崎藩の担当となった。1695年(元禄8)、費用分担は幕府が10分の1、残りは村々へ国役掛りとして高100石につき5人の人足であったが、1712年(正徳2)には8人となり、村々の負担は年々増大していった。