園田村の合併
そのだむらのがっぺい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
園田村は1925年(大正14)に決定された尼崎都市計画区域に含まれており、一体的都市整備をめざす尼崎市は1942年(昭和17)の大庄・立花・武庫村の合併時にも合併を申し入れたが拒否された。終戦後の1946年4月、市はふたたび合併申し入れを行なった。村では財政難による懸案事項困難などのため合併やむなしとの方向であったが、直後に旧来関係の密接な伊丹市からも同様の申し入れがあり村内世論が分裂、両市による綱引きとなった。尼崎市側では、伊丹市の行動の背景には三菱電機伊丹製作所など多額納税寄付の実績のある大口法人の喪失という問題があると見ていた。両市財政の調査と検討を進めた村では9月に検討打ち切りを決定、伊丹市に有利に傾くかと思われたが、水面下の工作などの結果10月の村会で再度合併検討の動議が提出され、紛糾のすえ可決された。これにより、11月には合併条件が村から尼崎市に提示され、同月合併覚書が交わされた。しかしながら村民や村内工場などの反対は大きく、翌1947年にかけて村会の流会・反対部落の役場事務ボイコットなど事態が紛糾、賛成派議員に対する暴力事件まで引き起こした。県ではこうした事態に懸念を抱いたものの結局合併を認可し、1947年3月1日をもって現在の尼崎市域が実現、翌1948年2月13日になってようやく解村式が行なわれた。