朝鮮人労働者
(在日本朝鮮労働総同盟尼崎支部より転送)
1910年(明治43)の「韓国併合ニ関スル条約」調印により日本の植民地とされた朝鮮半島では、その後第1次大戦末期強行された「土地調査」によって土地を失った農民らが職を求めて大量に日本に流入した。低運賃の済州島-大阪航路が開通したことは、大阪周辺への集中を強めた。1928年(昭和3)の流入者は16万6,286人。尼崎へは1917年(大正6)ころから移住が始まり、同年42人であったものが、1924年901人(小田村を含む)、1930年2,568人、1937年尼崎市に1,034戸、6,120人、武庫村に347戸2,057人と激増し、県下有数の朝鮮人労働者の居住地となった。この背景には、1919年から1926年にかけての阪神国道建設工事、それに関連して1920年から始まった武庫川改修などに大量の朝鮮人労働者が雇用されたことと、市内の多くの工場が低労賃の朝鮮人労働者を競って雇用したことが要因をなしていた。1917年に岸本商店尼崎製釘所と大阪合同紡績神崎工場に見られた朝鮮人労働者は、1920年代に関西ペイント・富士製紙神崎工場・大阪塗料・大日本木管・鈴木商店尼崎製材所・岡本製壜尼崎工場・菱上硝子・武川ゴムなど多くの産業に及び、乾鉄線では1924年306人中99人。俗に「朝鮮人工場」といわれた大阪製麻では43%(682人中292人、内女子251人)にも達した。労働条件は劣悪で雑役など厳しい肉体労働が主体、賃金は日本人労働者の2分の1~3分の1が通例で労働災害も多く、民族差別され、ひどい住環境ともあいまって健康を害するものも多かった。1920年代は朝鮮人の増加により職場を奪われるとの観点から、日本人労働者との対立もあったが1926年2~3月の大阪製麻のストや1927年5月の乾鉄線争議に見られるように、一部では両者の共闘が組織され、労働者相互の連帯も強まった。また朝鮮人自身の組織として在日本朝鮮労働総同盟尼崎支部(1930年5月尼崎自由労働組合に発展)が結成され、生活向上を目指して1931年3月20日尼崎に阪神消費組合、1932年7月尼崎市長洲で朝鮮人協進会が結成された。守部村では朝鮮人父母の要求をきっかけに関西普通学堂が1935年4月設立された。居住者の増加を背景に尼崎市会に朴炳仁(2期)、武庫村・立花村にも朝鮮人議員が誕生した。朝鮮人強制連行が始まった1939年以降は、尼崎市の居住人口も急増し、1945年には約4万5,000人にも達した。
参考文献
- 洪祥進「尼崎と在日朝鮮人」兵庫朝鮮関係研究会『兵庫と朝鮮人』 1985
- 小野寺逸也「1940年前後における在日朝鮮人問題の一斑」『朝鮮研究』 59 1967 日本朝鮮研究所