地子

じし
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  領主が田畠・屋地などに対して地代として賦課するもので、田地子・畠地子・屋地子・塩浜地子など多様な種類がある。平安後期になり、荘園・私領などを支配する領主が出現すると、国家(国衙)が賦課するものを租税といい、領主が徴収するものを地子というようになった。11世紀後半には、田地ばかりか、畠・在家・屋地などのも地子が課せられるようになった。市域では、1055年(天喜3)に、東大寺領猪名荘田堵秦成重らが、毎年段別5斗を収めるべき地子米を未進して東大寺と争っている。鎌倉初期には、東大寺が長洲浜の500戸余りの在家に課してきた在家地子を、漁民たちが鴨社の権威をかりて収めず抵抗したような例がみられる。

執筆者: 田中文英

参考文献

  • 綱野善彦『日本中世の民衆像』 1980 岩波書店
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