地租改正
ちそかいせい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
秩禄処分とならんで明治維新の最大の改革である地租改正は、1873年(明治6)7月に公布された地租改正法・同条例にはじまる。兵庫県(第2次)では同年11月から県官が県下を巡回して説明するなど改租事業に着手したが、本格化するのは政府が地租改正事務局を設置した翌1874年3月以降である。まず耕・宅地の現歩取調べ(実面積の測量)がはじまり、市域では同年6月から9月までにほぼ完了したと考えられる。江戸時代中期いらい永年実施されなかった土地実測は、農民の土地所有意識もあって大きい抵抗はなく実現した。ついで地租額の基準となる地価確定作業に入った。当初の農民側の申告はかなり低額で旧貢租を下回る見込みであったので、県では旧貢租にほぼ見合う予定額である「改正仮額」を1875年11月ごろ内示したが、農民側は強くこれに抵抗した。1876年2月には農民側に立つ区長クラスの県会議員の要求によって臨時県会が開かれ、地価決定をめぐって論議された。しかし結局農民側の要求は容れられず、県の強靭な方針のもとに同年9月ごろには「改正仮額」通りの地価が全県的に承認された。しかしその後も農民の減額要求がつづき、最終的な承認手続文書である「一筆限地価取調帳」が各村から提出されたのは、市域で現存するものでは武庫郡東武庫村のものが同年11月でもっとも早く、もっとも遅いものは翌1877年8月の同郡生津村のものである。1877年末から改正地券が交付され耕・宅地の地租改正はひとまず完了した。その後も山林原野の地租改正作業はつづくが、市域にはほとんど関係がない。