坂部合戦
さかべかっせん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
坂部は、酒部とも書く。元弘の乱における赤松円心(則村)と六波羅探題の軍勢との合戦。1333年(元弘3・正慶2)正月、播磨で挙兵した赤松円心は東上して、豊島〔てしま〕郡の瀬川(現箕面市)に本隊をおく鎌倉幕府の六波羅軍と対峙した。赤松軍は、同年閏2月23日の尼崎合戦で勝ち、翌24日の坂部村(現上坂部・下坂部)における合戦でも六波羅軍を撃破して、尼崎から伊丹地方を制圧した。赤松軍には、播磨太山寺(現神戸市西区)の衆徒も参加していたが、その軍忠状によると、尼崎では時教大輔が負傷し、坂部合戦では刑部次郎安重が討死したという。ところが、3月10日、阿波守護小笠原氏の率いる大軍が尼崎に上陸し、久々知・坂部に布陣していた赤松勢の背後を急襲した。赤松勢は少数ながらよく奮戦して囲みを破り、昆陽里〔こやのさと〕(現伊丹市)の本隊と合流した。「太平記」はこれを「酒部合戦」と呼んでいる。翌11日、赤松円心は瀬川の合戦で六波羅軍を破って、京都をめざした。なお、上坂部の伊佐具神社には赤松円心墓と伝える五輪塔がある。
参考文献
- 高坂好『赤松円心・満祐』 1970 吉川弘文館
- 『尼崎市史』第10巻 1974