塚口
立花地区の大字。市域中央北部、尼崎から伊丹へと通ずる街道沿いに位置する。付近には池田山古墳をはじめ塚口古墳群に属する古墳が点在しており、塚口という地名も池田山古墳もしくはこれら複数の古墳を背後にひかえていることに由来すると考えられる。史料上の初見は「広島別院旧蔵蓮如上人遺文」(宝塚市史第4巻)で、1483年(文明15)の内容を記す個所に「つか口」とある。中世には1409年(応永16)建立と伝えられる浄土真宗興正寺別院・塚口御坊を中心に、土居(土塁)と堀をめぐらせた寺内町を形成し、一向一揆の拠点の一つであった。
近世初期には幕府領、1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に1,210.305石、「元禄郷帳」に1,277.827石、「天保郷帳」に1,362.368石とある。また、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数192軒、人数1,342人、別に4軒、29人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には176軒、804人、別に8軒、36人とある。富松井組と三平井組に属した。氏神は須佐男神社(近世には牛頭天王社)、寺院は浄土宗願生寺・浄土真宗興正寺派正玄寺。
1889年(明治22)以降は立花村、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1919年(大正8)には塚口土地が設立され宅地開発がスタート、翌1920年の阪急電鉄の神戸線・伊丹線開通と同時に塚口駅が、隣接する森村内に開設され、1934年(昭和9)には阪急電鉄も住宅地分譲に乗り出すなど、早い時期から近郊住宅地化した。1962年の町名改正と1982年の住居表示により塚口町・塚口本町となったほか、一部が南塚口町となった。