塚口土地

つかぐちとち
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
塚口土地住宅地分譲ポスター(尼崎市教育委員会所蔵)
塚口土地住宅地分譲ポスター(尼崎市教育委員会所蔵)

  第1次大戦前後の阪神間の諸都市への人口集中を背景にして、箕面有馬電軌1918年(大正7)2月社名を阪神急行電鉄と改め、阪神直通線の建設に着工し、1920年7月塚口経由の現阪急電鉄神戸線と塚口-伊丹間の支線の開通をみた。塚口土地は、この開通をにらんで、資本金300万円の株式会社形態をとって1919年11月に設立された土地会社であった。塚口土地は、本社を大阪市東区道修町4丁目におき、会社代表取締役には関西信託(株)専務取締役で山口銀行営業部次長でもあった内藤金一が就任した。塚口土地の所有地の経営や営業に関する事務は、同社の本社と同じ番地にあった関西信託にこれを信託するものとなっていた。関西信託の経営は1916年秋増田ビルブローカー銀行の増田一族から山口銀行の山口家に移っており、山口財閥の直系企業として位置していたから、その意味では、山口時代の関西信託の主導のもとに創設された塚口土地は、山口財閥の傍系企業として位置していたといえるであろう。1920年4月30日現在の塚口土地の株主数は81人、株式総数は6万株であり、そのうち61人、5万1,550株が大阪府に分布し、兵庫県には14人、8,060株が分布するにすぎなかった。塚口土地の業務としては、「住宅ノ経営」「土地建物ノ所有売買及賃貸借」「動産不動産担保金銭貸借」「右ニ関スル附帯ノ業務」があげられていたが、具体的には塚口周辺に約7万3,000坪の土地を所有し、それを住宅地として開発し、土地建物の分譲をせんとすることにあった。経営地に対して簡易上水道を敷設し、敷地の寄付により後に安田保善社商工教育財団の経営にかかる中外商業学校の誘致等を行なっている。こうして塚口駅を中心とした住宅地が出現し、塚口の戸数も1915年の218戸から1927年(昭和2)の602戸へと急増したのである。

執筆者: 天野雅敏

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