壬申戸籍

じんしんこせき
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  明治4年戸籍(京都府仕法戸籍)が旧領知別・身分別に編製された欠陥を改めるため、1871年(明治4)4月4日あたらしい戸籍法が発布された。それにもとづいて1872年2月1日から以後100日間に編製することとされた戸籍が、その年の干支〔えと〕にちなんで壬申戸籍といわれる。この戸籍法の発布は廃藩置県以前のことであったが、政府直轄府県と各藩領の区別なく全国統一的に実施された。尼崎藩領の村々には1871年7月の日付のある戸籍下調帳が残っているし、尼崎町では同年9月惣町名主・惣代が召集されて戸籍雛形〔ひながた〕が下付されるなど、このころから戸籍作成の準備がすすめられていることがわかる。1872年2月兵庫県(第2次)の下で五〇区制が成立し、戸籍編製が急速に進展した。編製の原則は、士族・平民・僧など族籍別戸籍とせず、すべてその居住地にしたがって順次戸籍に編製し、4年戸籍にあった土地所有などの家産事項の記載は除かれた。そういう意味で最初の近代的戸籍であった。しかし個人の族称・職業・氏神・壇那寺の記載はなお残されたばかりでなく、穢多・非人は平民と区別して取り扱うこととされていた。編製の課程にあった1871年8月28日、穢多・非人の称を廃止する太政官布告が出されたので、戸籍上のこの差別的取扱いの廃止が全国的に通達された。したがって、戸籍編製時には身分差別を示す記載は当然解消されるべきであったし、また実際には記載されないのが一般的であったが、例外的に地方によっては通達が徹底せず旧慣にとらわれて差別的記載が残ることもあった。このことが壬申戸籍が差別的であるとみなされる一因となっている。

執筆者: 山崎隆三

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