多田行綱
ただゆきつな
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
生没年未詳
源平合戦期に活躍した武将。多田源氏の嫡流で、頼盛の子。正五位下、伯耆守、蔵人となり、多田太郎、多田蔵人、六条蔵人と号する。平治の乱後、平氏に属していたが、1177年(治承元)後白河上皇側近らの平氏打倒謀議に参加。しかし事の成功に疑問をもって平清盛に謀議を密告し、鹿ヶ谷事件の発端をつくった。行綱も安芸に配流されたが、1183年(寿永2)7月木曽義仲に呼応して河尻辺で活躍、平氏包囲の一翼を形成した。木曽義仲と後白河法皇が対立すると法皇側につき、義仲が院御所法住寺殿を攻撃するとそこから脱出する変り身の早さをみせ、ついで源義経軍に属した。1185年(文治元)6月、義経と源頼朝の対立が決定的となり、義経が腰越から追い帰された直後、行綱も「奇怪」という理由で頼朝から勘当(追放)された。同年11月、行綱は豊島〔てしま〕冠者らとともに、西国に没落する義経軍と河尻で戦い、最後の変わり身をみせたが、以後の動静は未詳。多田源氏の嫡流として源平合戦に花々しく活躍しながら、いわば歴史の奔流に押し流された人物である。
参考文献
- 川西市史『かわにし』第1巻 1974