大同製鋼尼崎工場
(大同鋼板より転送)
尼崎工場の発端は、神戸に創立され活動拠点を大阪に移し、鉄板や鉄製品の輸入をしていた富永商店が、1924年(大正13)東亜鍍金(株)を買収、同商店尼崎工業所を開いたことにはじまる。東亜鍍金は市内初島(用地3,300m2)にあった亜鉛めっき工場で、従業員70~80人の規模であった。
満州事変が勃発した1930年(昭和5)、市内杭瀬に用地1万9,800m2を取得して工場を建設し移転、1931年3月に生産を開始した。翌1932年から1935年にかけて薄板・条鋼設備を増強して本格的な生産を開始、生産規模(1936年)は亜鉛鉄板3.1万トン・鋼板4.4万トンにのぼった。1934年資本金400万円の富永鋼業(株)に改組、1937年には三井物産の50%出資を得て700万円に増資。つづいて西淀川区中島に入手した用地16万5,000m2では、50トン平炉を備えた製鋼工場、鋳・鍛鋼工場も操業をはじめた。しかしこのころには戦時統制が強化され、原料入手も資金調達も困難になりつつあったため1941年10月1日大同製鋼(株)と合併した。1943年からは隣接地に工場を増設、軍需用の特殊鋼圧延、鉄帽の製造を行なった。1945年6月から8月にかけては、4回の空襲を受けたが、主要設備の被害は軽微だったので、1945年末から生産が再開された。
1950年2月、企業再建整備計画による大同製鋼の2分割にともない、尼崎工場は資本金1.2億円の大同鋼板(株)として新発足することになった。当時従業員数は2,000人を越え、鋼材の生産高では尼崎製鉄・日亜製鋼・住友金属工業鋼管製造所といった市域の平炉各社と肩を並べる存在であったが、以後1952年から1957年にかけて、急速に冷間圧延と亜鉛鉄板の生産に比重を移してゆく。その契機となったのは、1952年、1953年に資本と素材調達の両面で深まった富士製鉄(株)との提携関係であった。1960年以降、市域の鉄鋼業のなかでは最も高い伸びを示し、1964年の冷延広幅帯鋼15.2万トン、亜鉛鉄板13.8万トンなどは、全国有数の生産規模であった。
2002年10月、大同鋼板(株)は大洋製鋼(株)との事業統合で日鉄鋼板(株)と改称し、本社を尼崎から東京へ移転。尼崎と滋賀の工場は、製造を担う子会社として新たに設立された大同鋼板(株)が引き継いだが、2004年4月にこの会社が日鉄鋼板に吸収合併されたため、大同鋼板の名称は消えた。日鉄鋼板は2006年12月の住友金属建材(株)との事業統合により日鉄住金鋼板(株)へと改称し、2019年4月1日にふたたび日鉄鋼板と改称した。日鉄住金鋼板の尼崎製造所は2009年に西日本製造所〔尼崎地区〕となり、2019年現在は日鉄鋼板尼崎製造所〔尼崎地区〕である。
参考文献
- 『かりがね・特別号-大同鋼板株式会社25年小史』 1975
- 名和靖恭「尼崎市域鉄鋼業の構造変化」『市研尼崎』第22号 1979 尼崎市政調査会
- 『大同鋼板50年史』 2001