大坂の陣
おおさかのじん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
豊臣氏が滅亡し徳川氏の全国支配が確立した、1614年(慶長19)の冬の陣と翌1615年の夏の陣をいう。1614年8月大坂城攻略の端緒をつかんだ家康は、兵粮米備蓄のために大坂へ送られていた米を、尼崎・堺に回送するように命じ、その他の物資も同様に、大坂の経済封鎖を徹底させた。一方、家康は大坂ののど元に当たる尼崎の守りを固めるために、尼崎郡代建部政長(当時12歳)のおじ池田重利を代官に任じて尼崎に送った。政長・重利は、支配下の村々から人質を取って、年貢米が大坂方の兵粮米に流れるのを防いだ功績などにより、陣後に大名に取り立てられた。
1614年(慶長19)10月12日の大坂方による堺への攻撃の際、直前に大坂城を退去していた片桐且元が堺救援のため兵を尼崎から船で送り込むべく茨木城から出兵したが、尼崎城に在城する郡代建部政長・代官池田重利らは警戒して片桐勢の入城をこばみ、渡海のための船も貸さなかった。このため、片桐勢は一部の兵しか堺へ渡れず、大坂方に迎え撃れた。また、尼崎に残った片桐勢は、出撃してきた大坂方の攻撃を受け、伊丹方面へと退きつつ防戦するも多くが討ち取られた。尼崎の城兵が片桐勢を見殺しにしたことが、手落ちであるとして後日問われている。これに対して、代官池田重利の主君である池田利隆が、海陸を守る尼崎城を固めるのが家康の命であったこと、片桐勢救援のため城を出たすきに海路から城を奪われる失態があっては天下の一大事であり、大坂方の術策を警戒したと弁明し、家康の理解を得ている。