大島井組内の分水争論
おおしまゆぐみないのぶんすいそうろん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1775年(安永4)、1789年(寛政元)と分水の争いがあった。1789年の干ばつのとき、従来の「順水」を「番水」にする日割りを東大島村が示したが、享保の井親争いの裁定を不服とする今北村が反対したことから争いとなった。今北村に1日、下3か村に1日の番水で一応決まったかにみえたが、今北村100石余の田地に1日、下3か村500石に1日の配分は不平等な取り決めであるとして完全な解決にはならなかった。1791年(寛政3)、大島井本流から上3か村の用水路が分かれる字二つ俣の堰を、下3か村の百姓が取り壊した。これは堰を切った下3か村が非曲であると、村々の庄屋・年寄が入牢させられた。この争いの結果、変更の余地がないほどに細部にわたる取り決めがなされて、大島井組の分水規定ができあがり、以後争いはなくなった。