大島荘
おおしまのしょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
平安時代から戦国時代にあった荘園。1156年(保元元)の保元の乱で敗れた左大臣藤原頼長の所領29か所の一つに大島雀部〔ささべ〕荘が含まれていた。同荘は、武庫郡内の雀部郷を範囲とする雀部荘とその南に位置する大島郷を範囲とする大島荘とに別れていたものが再統合されたものとみられる。この荘園領主の地位は高藤流藤原氏に伝領されたが、この一族は琵琶の名手が輩出した家柄である。
やがて西園寺家へ相伝されると、源資名(村上源氏)の女子との間で争いとなった。1343年(康永2)9月29日付の院宣により源氏の所領と認められた。この院宣には蓮華王院領摂津国大島雀部荘とある。その後同荘は源(壬生)家から久我家へ寄進された。室町時代の1460年(長禄4)には、摂津国守護細川持久とその代官によって大島荘の半分が守護方の武士に17年間も分割されていたことが知られる。1486年(文明18)に竹内基治が大島荘名主百姓中に宛てた文書によれば、池田兵庫助へ売却されており、翌年には大島荘領主職に安東政藤の名が見える史料がある。大島雀部荘から大島荘と荘名が変わるのは、そうした状況のなかで下地中分がおこなわれ、大島地域のみが終末期の荘園として再経営されたためであろう。