大徳寺

だいとくじ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の本山。開山は宗峰妙超〔しゅうほうみょうちょう〕(大燈国師)。宗峰は赤松則村(円心)の縁者で、則村の援助により小庵を建立したのにはじまり、1325年(正中2)花園上皇・後醍醐天皇はともに祈願所とし、翌年法堂が完成した。建武新政下で官刹に列したが、室町幕府のもと五山制が整うと、大徳寺はみずから官刹を離脱した。そのため宗風はふるわず兵火もうけたが、応仁の乱後一休宗純が堺商人の援助をうけて復興、ついで戦国大名らの外護もうけ、以後近世初頭にかけ山内に多くの塔頭も建立された。尼崎の廣徳寺は、中世には大徳寺の塔頭如意庵の末寺。1389年(康応元)小松荘内の田地を買得した廣徳寺宗栄は、のちこの田を含む5反の田地を亡父の霊供田として如意庵に寄進しているが、この宗栄が廣徳寺の開基で、従って廣徳寺は南北時代末の開創である。戦国時代には、廣徳寺にも塔頭龍雲院があり、久住者がいたが、住持は交代で如意庵から下向し、寺領の収入中から一定分を如意庵へ運上し、規式も大徳寺で作成されるなど、廣徳寺は如意庵の強い統制下にあった。寺領は10町歩余の田畠と14筆の屋地があり、守護不入で、臨時課役・段銭・棟別銭が免除されていた。また廣徳寺近傍絵図も伝わり、中世の廣徳寺は大物川沿いにあったことが判明する。関係史料はすべて大徳寺文書(大日本古文書)中にのこされている。

執筆者: 熱田公

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