大物
神崎川の河口にあった河尻の砂州から発達した港。中世の港湾遺跡である大物遺跡が出土している。平安末期以降の作製と考えられる猪名庄絵図に記される大物浜の表記が、史料上の初見と考えられる。地名の「大物」は古代においては巨大な材木を意味しており、材木の集散する港町であったことに由来すると考えられるが、ほかに砂州から島へと大物の土地が形成された当初の島の形が牛に似ていたため、牛を意味する「大物」と名付けた、あるいは大物主命〔おおものぬしのみこと〕に由来する、という説などもある。
大物は長洲の地先にあたり、平安末期から鎌倉時代にかけて長洲をめぐる東大寺・鴨社争論のなかで、大物もまた双方が領有を主張した。この間、久安年間(1145~1151)には源氏の棟梁源為義が横領を企てた。1185年(文治元)には頼朝に追われた源義経が船出をしたことでも知られ、大物町の若宮(大物主神社)に隣接して義経・弁慶旅宿の地が伝えられている。大物浦の港が発展するなかで中世の大物町となり、その北に近世の大物村が形成された。
大物村は、近世初期には長洲村に含まれており、1615年(元和元)建部政長の領地となり、1617年の戸田氏鉄入部以降は尼崎藩領であった。また正保年間(1644~1648)以降は極小部が栖賢寺・廣徳寺の領地であった。この2寺はいずれも近世尼崎城の築城時に大物町から寺町に移転した寺である。青山氏(幸成系)が尼崎藩に入封した1635年(寛永12)以降、長洲村が中長洲・東長洲・西長洲・大物の4村に分けられたものと考えられる。村高は「元禄郷帳」に731.799石、「天保郷帳」に732.526石とある。また、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には尼崎藩領分として家数48軒、人数213人とある(極小部の寺領独自の家数人数が別にあるかどうか不明)。氏神は城下大物町の大物主神社(近世には若宮弁財天社)、寺院は城下大物町の浄土宗深正院。
1889年(明治22)以降は尼崎町、1916年(大正5)以降は尼崎市の大字となった。1904年には阪神電鉄の本社と車庫が設置され、1905年には大物・杭瀬境界線上に同大物駅が開設された。1930年(昭和5)の町名改正と1986・1991年(平成3)の住居表示により北大物町・昭和通・西大物町・東大物町となったほか、一部が長洲中通・長洲本通・金楽寺町・西長洲町・北城内・南城内となった。