大物崩れ
だいもつくずれ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
戦国時代の1531年(亨禄4)6月、尼崎から大坂にかけての地域で行なわれた合戦の名称。1527年(大永7)2月の京都桂川の戦いで細川高国は柳本賢治・三好元長らの軍に敗れ、いったん近江へ逃亡したのち京都奪回を試みたが果たさず、山陰から山陽を流浪した。しかし1530年6月賢治が播磨三木で暗殺されると衰勢を盛り返し、浦上村宗の援助を得て備前・播磨から摂津神呪〔かんのう〕寺(現西宮市)に進出して、堺に拠る細川晴元・三好元長らと相対した。折から晴元と元長は内紛によって疎遠となっていたが、高国が破竹の勢いで富松・大物〔だいもつ〕・伊丹・池田など摂津の諸城を攻略すると、1531年2月晴元は元長の出陣を要請、ここに両軍は摂津国欠郡(現大阪市)を挟んでにらみ合った。戦端は同年6月4日に天王寺・阿倍野から開かれ、北上した元長軍は高国方を大破して中島方面へ追撃し、野里川(中津川)で高国軍は溺死者多数を出した。敗因は高国軍の後衛の赤松軍の内応にあるとされている。高国は尼崎まで逃れたが5日にみつかって捕われ、8日、大物の広徳寺で自刃した。
なお、野里川で5千人とも1万人ともいわれる犠牲者を出した浦上勢のなかでも島村貴則の奮戦は語り草となり、野里川には恨みのこもった島村蟹が発生したとの伝説が残った。1928年(昭和3)に昭和大典紀念として建てられた「大物くつれ戦跡」碑が阪神大物駅北側西にある(元はもっと南東にあった)。
参考文献
- 『新修大阪市史』第2巻 1988