大物浦

だいもつうら
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  武庫川猪名川・淀川水系は、地質時代以降大阪湾に多くの土砂を運搬し堆積した。また、大阪湾を流れる沿岸潮流が海岸近くに沿岸砂州を形成して海岸の前進を促した。尼崎地域では沿岸砂州が東西方向に幾重にも形成され、その間に潮汐の出入りする浅海の水尾〔みお〕(江)ができた。長洲杭瀬大物、尼崎が発展する砂州もそうして形成され、次々に開墾されて人々が住みつき、陸続きとなり河港となった。大物はまさにその典型である。1180年(治承4)京都から福原(現神戸市兵庫区)へ向かう公家たちは、大物で船を降りて陸路をとっている。1185年(文治元)の源義経一行西国落ちは、大風に阻まれてわずか小舟1艘が和泉にたどりついたという。河尻の泊と総称される河口一帯は古来遭難の多い所であり、1196年(建久7)の僧重源の奏状にもそのことが記されている。土地の進展が著しいため、大物の港はやがて機能を海側に新しく出現した尼崎の港に譲ることとなった。

執筆者: 渡辺久雄

参考文献

  • 渡辺久雄「長洲から尼崎まで」『地域史研究』第4巻第2号 1974
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