大物町

だいもつちょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  中世以来の尼崎町の町名。大物は平安時代以来の地名であるが、大物町を指すと思われる史料上の初見は1415年(応永22)「尼崎道泉代官又二郎左近年貢米請取状」(九条家文書/図書寮叢刊)で「あまさき大物」とある。中世には大物川を隔てて尼崎町の北側に位置し、神崎川の分流河口の大物浦に面しており、西国と京都の流通を中継する港湾として商人が活躍した。戦国時代には、細川高国勢と細川澄元晴元勢による永正享禄年間(1504~1532)の一連の戦いをはじめ、たびたび争乱の地となった。中世の尼崎城も大物町の北西にあったと推定されている。当時の大物町には廣徳寺栖賢寺という二つの禅寺があり、禅宗が盛んであったが、これらは浄土宗の甘露寺とともに、近世に入って尼崎城の築城時に寺町へと移転した。また大物総道場を中心に一向一揆も盛んであり、同地の一向宗徒は大物衆と呼ばれた。石山本願寺のもと有力な武力を有した西成郡の三番定専坊に属する西教寺が、永禄年間(1558~1570)に三反田から移転し、同じく定専坊下の常念寺もまた戦国末期に海老江(現大阪市福島区)から移転した。

  近世には、城下町建設の際一部が侍屋敷となったほか、大部分が町人の居住する町場で、神崎の渡しから城下へと向かう中国街道が通過していた。町の南の大物川沿い、市庭町へと通じる大物橋から東端の大坂への着船場にかけての浜は、船宿が軒をならべる旅籠屋町であった。「尼崎領尼崎町本地子」(金蓮寺〔こんれんじ〕旧蔵文書写)には戸田氏の時代の石高188.852石、地子米94.426石、「築地町式目帳」(『尼崎市史』第5巻)には1769年(明和6)の惣町間口857間、「城内・城下間数・家数書上げ」(年不詳、同前)には家数300軒とある。氏神は大物主神社(近世には若宮弁財天)、寺院は藩主松平氏の菩提寺である浄土宗深正院浄土真宗本願寺派西教寺・同宗同派常念寺。ほかに浄土宗円平寺があった。1930年(昭和5)の町名改正により大物町となった。

執筆者: 地域研究史料館

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