大谷重工争議
ドッジ・ラインによって不況が深刻化する中、1950年(昭和25)3月から6月にかけて、大谷重工業尼崎工場で起こった争議。大谷重工では、1949年暮れ越年資金をめぐり労使間で激しい対立があったが、労組側の敗北に終った。続いて翌1950年1月、会社側は組合に対し労働協約の更新を拒否する旨を通告した。その後、労使間で、労働協約、配置転換、深夜業・残業手当の問題で団体交渉がもたれたが解決せず、この間工員寮自治会による舎監の不正追及、組合幹部の解雇事件などが発生し、労使間の対立は頂点に達した。3月10日、労組は残業手当50%増など17項目を要求、以後工員寮自治会・ロール旋盤工などが職場放棄の実力行使に出た。これに対し18日会社は残業手当30%増の回答を出したが、交渉は決裂した。24日労組側は、全員定時以外の作業拒否を会社に通告、26日には協定破棄、反射炉・電気炉職場全員時間外拒否、28日には全員職場放棄、工場占拠を行ない、29日闘争宣言を発しストに突入した。これに会社側が、ロックアウトで応じたことにより、労使は全面衝突するに至った。
3月31日には、尼崎地区の全日本金属加盟の各分会を中心として地域的共闘態勢がとられ、電産尼一・電産尼二・日亜・尼鋼・尼崎全労協、尼崎自由労働者組合より約40~50人が連日応援にかけつけた。一方会社側は、労組との対決姿勢を強め、4月の地労委勧告・連合軍近畿民事部レスブリッジ労働課長の勧告・神戸地裁裁定をいずれも拒否した。4月8日第2組合(大谷重工業尼崎工場労組、332人加入)が正式に結成され、それが新産別への加入を決議すると、労組側の動揺も深まっていった。結局、6月25日会社側が出した、争議解決金450万円の支給、組合幹部20人の解雇という提案を、組合が受け入れるというかたちで争議は終結した。この結果、尼崎全労協の中核をなした鉄鋼5社労組の一角が崩されるとともに、産別会議加盟の全日本金属労組が重要な拠点を失うことになった。