大阪板紙の悪水問題

おおさかいたがみのあくすいもんだい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1915年(大正4)東難波庄下川右岸で操業を開始した大阪板紙(のち西成製紙・聯合紙器)では、多量の用水を確保するため深井戸を掘ったところ付近の井戸水がかれるということが起こった。さらに同工場の排水のために付近の稲が枯死することになった。そればかりでなく庄下川水をボイラーに使用していた阪神電鉄の発電所でもボイラーのさびや機械の故障が続出した。それまで清澄で水泳もできた庄下川の汚濁がここにはじまったのである。そこで板紙では明礬〔みょうばん〕を用いて有害物質を沈殿して排水することにしたが、採算上の理由でまもなく中止した。阪神電鉄の発電所は1919年廃止となったが農地の悪水による被害は解消せず、農民は工場の休業を命ずるよう陳情をくり返した。1922年には尼崎市会も工場移転促進の意見書を議決したし、市当局は1929年(昭和4)、つづいて1932年と同社にたいして浄化設備の改善を要望したが未解決に終った。その後重化学工業の発展にともなって大気汚染も重大化したので、ついに市会は1936年8月煤煙防止河川浄化委員会を設置し対策にとりくむことになった。翌年汚水を放流する工場の付近で水質検査を行ない、さらに19391940両年には庄下川の最大の汚水放流源として聨合紙器(旧大阪板紙)・旭染料両工場の排水口付近の水質検査を実施した。その結果は一般に公表することもできないほど深刻な状態であったので、市と市会の委員は両社にたいして再三交渉をくりかえし、旭染料はフィルター・プレスを設置し、聨合紙器では沈殿槽を設置しコンベア・ポンプで沈殿物回収作業を改善することになって、ようやく悪水問題は一応の解決をみることになった。

執筆者: 山崎隆三

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