大阪相撲
おおさかずもう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
18世紀初頭(元禄期)から1926年(大正15)まで存続した大阪の職業相撲。江戸相撲より低く見られ、1898年(明治31)まで年1回の本場所には江戸(東京)の力士が番付上位で参加した。1903年から本場所が年2回となり、1919年(大正8)9月大阪・新世界に国技館を建設した。1925年に東京大角力協会に摂政賜杯が贈られたのをきっかけに東西合同気運が強まり、1927年(昭和2)1月に合併して大日本相撲協会となった。尼崎・貴布禰神社(西本町)の記録によると、江戸時代、同社境内で大阪相撲の興行がしばしば行なわれている。大阪相撲の主な尼崎出身力士として、江戸時代では大関若狭川平八、同浅尾山喜太郎、明治期では大関琴の浦熊治郎、幕内京〔かなどめ〕石松、同月ノ戸栄治郎、大正期では幕内高勇〔たかいさみ〕谷五郎があげられる。東京相撲の尼崎出身には、明治期に幕内神崎重太郎、東西合同後は戦中戦後期に小結若瀬川泰三、戦後期に幕内羽子錦徳三郎らがいる。
参考文献
- 佐々木由治郎『大日本大阪相撲』 1910
- 坂本胖『国技館記念』 1919 大阪角力協会
- 吉野省作「宝暦より慶応に至る尼崎貴布禰社境内見世物一覧」『上方』 59号 1935