大阪製麻
1917年(大正6)1月25日、小田村長洲字大門(現尼崎市長洲中通2丁目)に本社工場を置く大阪製麻(株)が設立された。黄麻(ジュート)製の糸・布・袋を製造し、1923年発行の『小田のしるべ』によればこの時期の従業員数は事務員10人、技術員3人、職工631人(男性223、女性409)で、小田村管内では大阪合同紡績に次ぐ大規模工場であった。
同社では1922年、1926年、1927年(昭和2)に労働争議があったことを、『尼崎市史』第3巻が法政大学大原社会問題研究所所蔵「協調会文書」などをもとに記述している。とくに1926年2~3月の争議では、総同盟大阪連合会に属する摂津労働組合の組合員が約40人に達するなど組織活動が表面化し、会社側が活動家3人を解雇したことから一部労働者がストライキに入った。この時点の同社労働者682人(男250人、女432人)のうち朝鮮人労働者が292人(男41人、女251人)を占め、とくに朝鮮人女性労働者の比重が高く、争議の際に日朝労働者とくに女性労働者の連帯闘争が実現したことが特徴的であった。
会社創設期に女子寄宿舎の舎監を務めた女性の息子さんの回想によれば、女性職工は山陰や奄美・沖縄出身者が多く、待遇は余暇の面でそれなりの配慮があった一方で、労働は過酷で食事も粗末、不満が爆発してストライキになったこともあった。朝鮮人女工が雇用されるのは大正末期頃からで、日本人より低賃金だが他工場よりは待遇が良く、朝鮮人専用の寄宿舎に朝鮮人の舎監というシステムで、仕事をうばわれると日本人労働者が騒ぐという事態もあったという。幼少期の記憶にもとづく証言であり、事実関係についてこの回想のみをもって断定することはできないが、朝鮮人労働者の争議参加の背景情報として興味深い。
その一方で、あまがさきアーカイブズが所蔵する1930年代後半期発行と推定される同社発行絵はがきには、寄宿舎や診療所といった施設の充実と、そこで学びスポーツにいそしむ女性労働者の姿がアピールされており、大日本紡績や東洋紡績といった紡績大手他社と同様に、大阪製麻もまた福利厚生に一定の投資をして労働者を寄宿舎に囲い込み、労働運動からは隔離する労務管理方針を打ち出していたことがわかる。ただし、大正から昭和初期の朝鮮人労働者雇用や争議頻発とは対照的に見えるこういった動向が、経営方針の時期的な変化を意味するのかどうかは、これに関する経営史料が得られないため不詳である。
アジア太平洋戦争の敗戦を経て、同社は1949年8月1日に朝日羊毛工業有限会社を吸収合併して大日繊維工業(株)と改称し、尼崎市長洲の本社工場のほか大阪府田尻町吉見と泉大津市に分工場を有し、黄麻製品に加えて梳毛糸・紡毛糸製品を製造する企業へと成長した。1970年頃に本社工場が加古川市に移転したのち、尼崎市内の工場跡地は新設の兵庫県立尼崎小田高等学校用地となった。
参考文献
幸治政雄「舎監の仕事と女工さんの生活」『地域史研究』第12巻第2号 1983