天明7年多可郡酒造家騒動
てんめい7ねんたかぐんしゅぞうかそうどう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
天明の飢餓のさなか、1787年(天明7)10月酒造家騒動の檄ともいうべき「口上」が加古川筋58か村の酒造家のある村々へ回された。同月22日から播磨国多可郡の酒造家が襲われ、11月8日には幕府領の俵田村(現多可町八千代区)の酒造家利兵衛宅が襲われた。同月14日と17日にはこの騒動に関して生野代官所の役人と尼崎藩の役人とが尼崎藩領下野間村(現多可町八千代区)で協議している。上記利兵衛宅を襲った暴徒は140~150人、川下の三草藩・古河藩・尼崎藩・一橋領の多可郡・加西郡の者で、風聞した者の名前として、尼崎藩領では小坂(現西脇市)、下野間・中野間(現多可町八千代区)の3か村の源蔵以下10人が記されている。この一揆の対象となったには金貸しを兼ねた酒造家に限られており、領主は酒造改めを強化するなど、農民の要求を認める政策をとった。
参考文献
- 脇坂俊夫『多可西脇の一揆と騒動』 1987
- 『西脇市史』 本篇 1983
- 『兵庫県史』第4巻 1980