道意新田

どいしんでん
太布脇開発より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  大庄地区の大字。1653年(承応2)西成郡海老江(現大阪市福島区)の医師中野道意の係累の者3名が東・西新田地先の太布脇〔たぶわき〕開発を願い出て開発された。当初は太布脇新田と呼ばれ、1669年(寛文9)の最初の検地の際に道意新田と改名した。尼崎藩領で、天和貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には村高643.548石、家数31軒、人数193人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には村高643.569石、44軒、234人とある。郷帳に村名が独立して記載されることはなく、天保郷帳では同村の村高は西新田に含まれている。開発後もたびたび高潮被害にあったが、18世紀ころには土地も安定し綿作が発展していった。このころには地先に中浜新田が開発され、1782年(天明2)高入れされた。氏神は道意神社(近世には牛頭天王社、明治以降は素盞嗚神社1951年(昭和26)成立の宗教法人法による登録切替の際に改称)。

  1889年(明治22)以降は大庄村の大字、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字道意となった。大正期以降古河電気工業大阪伸銅所などの工場が建設され、臨海工業地帯の一部となっていった。1949年の土地区画整理により道意町となったほか、一部が武庫川町・中浜町となった。

執筆者: 地域研究史料館

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