奈良坂・清水坂両宿非人争論

ならさか きよみずざかりょうしゅくひにんそうろん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  鎌倉時代には、奈良興福寺に属する奈良坂非人と、京都清水寺に属する清水坂非人が、本宿として畿内近国の各宿駅(末宿)の非人を支配していた。当時、興福寺の末寺であった清水寺がその支配を脱して延暦寺の支配下に入ろうとし、争論を引き起こしていた。清水坂非人もまた、奈良坂非人の支配を脱しようとし、奈良坂寄りの清水坂長吏の排斥、あるいは清水坂長吏と奈良坂の対立など、近国の非人法師をも巻き込んだ一連の争闘に発展した。争いは1210年(承元4)ころから少なくとも1244年(寛元2)ころまで続いた。

  争いの当初の1210年ころ、排斥された清水坂長吏に味方した河尻小浜宿の長吏若狭法師らが、京都へ攻めのぼる途中淀津で山崎の吉野法師らに破れて奈良坂に落ちのび、奈良坂長吏の庇護を得て小浜に帰還するということがあった。この小浜はかつては現宝塚市域の小浜に比定されていたが、現在では臼井寿光の研究により、前後の地名などから尼崎市域の尾浜を指すと考えられている。

執筆者: 地域研究史料館

参考文献

  • 大山喬平『日本中世農村史の研究』 1978 岩波書店
  • 臼井寿光『兵庫の部落史近世部落の成立と展開』 1980 神戸新聞出版センター
  • 『部落史史料選集』 1 1988 部落問題研究所出版部
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