契沖

けいちゅう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1640年(寛永17) - 1701年(元禄14)正月25日

  僧契沖、諱〔いみな〕は、空心。父下川元全は尼崎藩青山幸成に仕えて250石扶持を給され、母は九州小倉細川家に仕える間〔はざま〕七大夫の娘。契沖は6男2女の第3子として尼崎に生まれた。幼少より記憶力抜群。11歳で出家、大坂今里の妙法寺に入り、丯定〔かいじょう〕を師とした。13歳のとき高野山に入り東室院快賢らに学んだ。1663年(寛文3)ころ摂津国の曼荼羅〔まんだら〕院の住職となり阿闍梨〔あじゃり〕位を得たが、長谷〔はせ〕から室生寺に至り苦行、再び高野山に上り快円らに学んだ。のち和泉国の辻森家および伏屋家に寄寓し仏典・漢籍・悉曇〔しったん〕学および和書を読破書写すること約9年にわたった。そのうち下河辺長流〔しもこうべちょうりゅう〕との交友から水戸光圀〔みつくに〕の依頼を受け、万葉集の注釈に心を傾け、1688年(元禄元)のころ『万葉代匠記』(初稿本)を完成したが、再度手を加えて1690年に献上したのが『万葉代匠記』(精撰本)と言われるものであった。光圀は白銀千両と絹30匹を与えてその功をねぎらった。契沖は近世日本の生んだ鬼才であり、その学問は確乎たる文献的基礎の上に、独創的研究を行ない、国学隆盛の基を築いた。国語学にも多くの著作があるが、いわゆる定家仮名遣〔ていかかなづか〕いの誤りを正し、『和字正濫鈔』〔わじしょうらんしょう〕を書いて、契沖仮名遣いを唱えた。これは後に認められ、歴史的仮名遣いとして定着した。口語文に現代仮名遣いが登場してきた今も、文語文(古典)には契沖の説がそのまま生き続けている。実証主義、文献主義、合理的帰納主義という近代的方法を確立し、それまでの主観的、神がかり的、独断的古典研究を改める画期的業績を残した。弟子に今井似閑〔じかん〕・海北若沖〔かいほくじゃくちゅう〕その他があり、その学統は荷田春満〔かだあずままろ〕・本居宣長〔もとおりのりなが〕らに受け継がれた。大坂の円珠庵〔えんじゅあん〕で没した。時に62歳であった。

執筆者: 岩松空一

参考文献

  • 『契沖全集』 16 1977 岩波書店
  • 岡本静心『契沖』 1961 兵庫県教育委員会ほか
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