学区
がっく
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
学制において制定されて以来の教育行政の区画単位。1872年(明治5)に制定された学制では、全国を8大学区(のち7大学区)、1大学区を32中学区、1中学区は人口13万を標準とし210小学区に区分し、各区に大学・中学・小学を設けることに定められた。兵庫県(第2次)は人口19万余であったので変則的であったが全県が1中学区(第23番中学区)となり、それを290小学区に区分したが、1873年末には実際の小学校設立数にあわせて161小学区に改訂した。しかし1校ごとに1小学区を設けることは困難であったので、当時の一九区制の行政区が事実上学区となった。市域では第7~12区にそれぞれ3~6小学校が開設されていた。このような事情のもとで教育行政の独自性のために学区取締が任命された。市域では第7・8区に旧姫路藩士中島成教が、第9・10・11区に旧尼崎藩士久保松照映(のち第12・13区兼任)が学区取締となり、担当区域内の学校の設立、費用、就学の勧誘など教育行政にあたった。その後の小学区は種々の変遷を経たのち、町村制成立の翌1890年に新町村が1学区となり、中心校が各1校設立された。しかし人口増加とともに町村内に複数の小学校が設立されると、それぞれの通学区域という意味での学区または校区が定められた。
参考文献
- 宮川秀一「明治前期における学区の変遷-とくに兵庫県川辺郡の学区について」『地域史研究』第3巻第1号 1973