学童疎開
がくどうそかい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1944年(昭和19)7月政府は国民学校初等科児童の疎開を決定し、尼崎市をふくむ13都市を学童疎開都市に指定した。同月県では神戸・尼崎両市の初等科3~6年の児童で縁故を頼って疎開できないものを集団的に疎開させることとなり、尼崎市の疎開先として県下川辺・多紀・氷上〔ひかみ〕・多可4郡内を指定した。市内で疎開したのは初等科16校中12校、同年9月末現在で縁故疎開9,775人、集団疎開3,914人、残留児童1万8,505人で42%が疎開した。1945年3月22日に政府が定めた学童疎開強化要綱にもとづく文部省通牒により、同年4月に尼崎市は神戸市とともに甲地区に指定され、初等科全学年が疎開することとなり、あらたに3,976人が集団疎開した。疎開先は175か所におよび、学校・寺院などを借用し、少なくとも週1回は授業することになっていたが、余暇には畑の開墾・手入れなども行なった。しかし生活環境の変化や食料不足などで病人が発生することも多く、引率の教員や受入れ地の人たちの苦心は大きかった。