守部
もりべ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
武庫地区の大字。市城西部、武庫川の東岸に位置する。史料上の初見は「山槐記」治承4年(1180)8月10日条(『尼崎市史』第4巻)で守部庄とある。平安末期から中世にかけては守部荘の荘域であった。森部と記した史料もある。
近世初期には幕府領、1617年(元和3)旗本佐藤氏(信則系)の知行所となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」「元禄郷帳」に386.1石、「天保郷帳」に510.5224石とある。井組は守部井組であった。氏神は素盞嗚神社で、鎌倉末期の守部素盞嗚神社十三重塔残欠が残っている。寺院は浄土宗来迎寺・浄土真宗本願寺派万照寺。
1889年(明治22)以降は武庫村、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1972・1975年の住居表示により南武庫之荘の一部となったほか、一部が水堂〔みずどう〕町・武庫町・武庫之荘西となり、守部という地名は消滅した。