1750年代

宝暦7年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  年表:

  世紀: 17世紀 - 18世紀 - 19世紀

  10年紀: 1720年代 1730年代 1740年代 - 1750年代 - 1760年代 1770年代 1780年代

  各年: 1750年 1751年 1752年 1753年 1754年 1755年 1756年 1757年 1758年 1759年


  1750年から1759年までの10年間を指す。

1750年代の年表

  • 1750年(寛延3)
    • 2月 - 尼崎藩は、有馬・武庫・川辺3郡に加えて菟原郡の小河川の土砂留普請の担当を命じられた。
    • 9月7日 - 堺の生魚問屋・漁民・出買人の間で、堺魚市場での取引は尼崎船より堺出買船を優先させるとの和談が成立した(尼崎浦漁民と堺出買人)。
    • 12月24日 - 尼崎藩が、広田・津門・今津3か村の御救銀札の発行許可と領内通用の促進を触れた。
  • 1751年(宝暦元・寛延4)
    • 3月20日 - 尼崎藩主松平忠喬が病気のため引退し、忠名が城主を継いだ。
    • 8月 - 堺から助松・大津境までの海域で尼崎ざこ船の魚を堺出買人が沖買いすることを、和泉国尾崎浦の吉田九右衛門が差し止めようとした(尼崎浦漁民と堺出買人)。
    • 11月22日 - 尼崎藩主松平忠名が領内の楠木正成の墓前に石燈籠両基を寄進した。以後、城主の代わるごとに寄進。
    • この年 - 尼崎城下8町のうち築地町の古地も他町なみに惣町勘定を負担すべきと他の7町が訴え出た。
  • 1752年(宝暦2)
    • この年 - 九条村の蜆漁師惣代が、尼崎の漁師を相手取って稼ぎ場所について大坂町奉行所へ訴え、勝訴した。
  • 1753年(宝暦3)
  • 1754年(宝暦4)
    • この年 - この年刊行の『日本山海名物図会』に尼崎の鳥貝があげられた。
  • 1755年(宝暦5)
    • 9月 - 友行村ほか忍藩領7か村は、寛保元年以来の綿作減少命令に対して、従前どおりの綿作許可を藩に願った。
    • この年 - 灘大石浦の新酒番船勝手仕立てに対し、大坂・西宮廻船仲間が反対した。
  • 1756年(宝暦6)
    • 2月5日 - 元尼崎藩主松平忠喬が尼崎で没した。
    • 3月 - 尼崎藩は、藩家中の諸士および妻子に対して領内村々から城下に出て来た者の無礼があったとして、家中・町方通行についての取締りなど5か条を触れた。
    • 9月15日 - 尼崎藩は、広田・津門・今津3か村発行の銀札が流通していないので、通用を停止し3か村に引き取らせると触れた。
  • 1758年(宝暦8)
    • 5月24日 - 魚市場中在家町戎の浜から同町大浜筋四丁目に移転新設する願いが尼崎藩に出され、認められた。
    • 5月26日 - 尼崎浦漁民が、鳴尾村の丸島開発願いは武庫川尻漁場の妨げになると、尼崎藩の郡代に訴えた(尼崎浦・鳴尾浦漁場境界争論)。
    • 12月28日 - 前日に幕府勘定奉行から菜種綿実買入れ場所の愁訴について吟味をうけた水車新田(現神戸市東灘区)の五右衛門らが、尼崎藩江戸屋敷を訪ねて報告した。
  • 1759年(宝暦9)
    • 5月9日 - 正徳2年の大水で埋まった西昆陽村地内の出水の掘りさらえと利用について、武庫井4か村と西昆陽村が浜田組大庄屋の仲裁で証文を取りかわした。
    • 閏7月 - 西難波村が大勢で浜田村側の浜田川溝口をせき止めるなど乱妨をしたと、浜田村が藩に訴えた。
    • 8月29日 - 幕府は兵庫・西宮・西国筋などの絞り油および諸国からの菜種・綿実の大坂積登せを命令した。
    • この年 - 武庫川沿いの武庫郡・川辺郡村々57か村から丸島開発について故障の申し立てがあり、開発願いは不許可になった。
    • この年 - 伊丹・小浜・生瀬の馬借が猪名川通船の出願に対して、扱い荷物がなくなり稼ぎが圧迫されると反対を嘆願した。
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