阪本杏隠

さかもときょういん
富島好宅より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1675年(延宝3) - 1756年(宝暦6)7月4日

  名は年寿、東野とも号した。はじめ富島好宅と称し、のち本姓阪本に復し阪本杏隠と称した。杏隠は尼崎藩主青山幸秀1711年(宝永8)信州飯山(現長野県飯山市)に転封され、さらに1717年(享保2)丹後宮津(現京都府宮津市)に転封された際、いずれも随従し、侍医として150石を給された。その後河内国丹南郡東野村に隠棲し、東野と号した。尼崎藩主松平忠喬は杏隠に仕官を促したが固辞し、代わって養嗣子阪本順庵に仕官させた。忠喬は杏隠に隠居料として5人扶持を給したと「阪本家譜」にみえるが、杏隠の学識と見識を忠喬が高く評価していたことを窺わせる。晩年は和歌を嗜むかたわら、子弟の教育にあたったという。

執筆者: 竹下喜久男

参考文献

  • 岡本静心『尼崎藩学史』 1954 尼崎市教育委員会・尼崎藩学史出版協会
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