富島荘
とみじまのしょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
平安時代から室町時代にあった荘園、初見は1160年(永暦元)7月の「山城国広隆寺所司申文案」(東寺百合文書/『尼崎市史』第4巻)。この広隆寺領は没収され国領となった。その後領家は佐々木女房、九条道家、さらに1250年(建長2)一条実経が相承した。同荘は歓喜光院領と興善院領とに分かれ、前者は梶ヶ島・常光寺・杭瀬付近に比定されている。承久の乱後、勲功のあった山内首藤家藤原宗俊が地頭として入部して以後、室町時代まで同家の所領であった。1360年(延文5)に、大洲〔おおす〕荘(杭瀬・初島・松島)を支配していた大覚寺に将軍足利義詮から富島荘下司職富島蔵人太郎の没収地が寄付された。その地は大洲荘に隣接した富島新荘と称すべき地域であろう。