富松井組

とまつゆぐみ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  富松井を利用する井組。野間(現伊丹市)・友行時友武庫庄東富松西富松塚口村の7か村で組織されていた。天正年間(1573~1592)以降まもない時期に、野間・友行・時友村を井親とする井組が成立していたと推定される。1617年(元和3)に野間・友行両村が費用を負担して武庫川取樋口を改造しており、このことを記した文書に「井親野間村」とある。また、1647年(正保4)の文書にも「野間村富松井郷組中」「野間富松井口」とあり、このころには下流の村々も含む井組が組織されていた。しかし、正式に井親・井子関係が確立したのは、1653年(承応2)に井路幅が拡張され、引水量が増加したのを契機として、川下4か村が手伝い人足のほかに諸入用銀の負担を条件として井組加入を申し入れたときのことである。なお、1653年の井溝拡張のとき溝敷地となった西昆陽村田地の「井替り田」として、友行村の田地8反12歩(分米4石611合)が西昆陽村に渡された。

  ほかに組外として、貝原溝の水を受けた生津村がある。貝原溝は、友行村の字若宮・八幡付近において富松井の溝に内法4寸の樋を伏せ、武庫庄西富松東富松の3か村に用水を引いた溝であるが、生津村は1625年(寛永2)ころにこの貝原溝からさらに溝を掘って村高267石5斗余のうち205石の田地を養うようになった。生津村のこの引水については、1664年(寛文4)から23年間におよぶ武庫庄ほか2か村との争論が生じている。

執筆者: 山下幸子

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