富松氏
(富松但馬守より転送)
摂津国川辺郡富松に勢力を持った中世・戦国時代の土豪の総称。清和源氏多田氏の流れをくむ家が古く、江戸時代の家伝によれば1333年(正慶2)多田太郎貞綱が摂州富松に住み、新田義貞に属し京都で戦死したとみえ、翌1334年に富松修理貞時が紀伊国へ移住し現在に至る、と伝えている。西宮の瓦林氏系図によると多田姓と思われる富松氏との婚姻関係の深さが知られる。室町時代に記された「康富記」によれば、応永から享徳年間(1394~1455)にかけて富松但馬守は一条家の代官として京都に住み、弟三郎左衛門は富松をはじめ摂津一円の一条家ほか摂関家荘園の現地支配にあたっていた。但馬守は富松内の牛頭天王社で千句連歌を興行しているが、伝承によれば、のちにこの牛頭天王社が現在の富松神社(中世の春日社)の地に移されたという。但馬守の子孫の富松氏は、1459年(長禄3)に摂津国川辺郡代であった富松式部丞をもって記録から消える。
1542年(天文11)以降、文献に再登場する富松氏は、橘氏の流れをくむ楠支流渋谷姓である。(大徳寺文書5・6/大日本古文書)。富松正治は旧姓渋谷で、留松〔とめまつ〕越前守正治とも記した人物である。家伝でも福岡県三瀦町在住の富松家は、東富松村郷士渋谷橘正保の弟の橘正則が1551年(天文20)の春九州に下ったことにはじまるとされる。出身の富松の村名を家名としたらしい。
大永年間(1521~1528)に橘氏薬師寺流富松姓と思われる薬師寺与市元亮が富松と改姓。1528年(大永8)4月に富松与市氏光の名が見える。天文以降、尼崎から紀伊国と備前国へと流れた富松家は、清和源氏足利氏の流れをくむとされる。ただし、富松の地名を帯びた足利家ゆかりの人物がいたかも知れないが家伝の始祖の存在は疑わしい。紀伊国系統は江戸時代の「寛政重諸家譜」にも記載されており、その先祖が摂津国富松荘に住し地名をもって家号となす、とある。