富松郷
とまつごう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
鎌倉時代から戦国時代にあった郷。生島荘のうち。1267年(文永4)2月8日付の浄証上人あての散位某の奉書(三鈷寺文書影写本1/『尼崎市史』第4巻)に、善峰観念三昧〔よしみねかんねんざんまい〕寺供田として生島庄富松郷公田7町111歩が京都三鈷寺〔さんこじ〕に寄進されたのが、同郷の初見。建長年間(1249~1256)以前に生島荘が九条家から興福寺・春日大社に寄進されたと伝えられ、室町時代作成の「三箇院家抄」には、九条兼実が寄進、春日社四季御八講〔ごはっこう〕料所夏冬方(法華経による供養の法会費用)にあてたとある。同荘の面積は14町80歩。そのうちには公文給、田所給、惣追捕使給、地頭給、さらにいくらかの損田があった。同郷には橘御園が入組み、九条家による一円支配ではなかった。南北朝時代の内乱時に摂津守護赤松光範の代官間島(安芸守)範清がこの地を支配しようと図ったこともあるが、戦国時代に至るまで興福寺大乗院支配の安位寺御料所となり、松林院預りであった。石数では、24石7斗の3分の1が同寺の支配、残りは松林院と本所の九条家の取得分であった。同郷は富松荘ともいわれたが、1491年(延徳3)以後は東富松を中心とする富松の東側に集中していき、東富松郷ともいわれている。