富田
とうだ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
園田地区の大字。市域北東部、猪名川の西岸に位置する。弥生後期~古墳時代の東園田遺跡がある。『摂津志』によれば中世には椋橋西荘の荘域であった。史料上の初見は従来1605年「慶長十年摂津国絵図」(ただし畠田村と誤記)されてきたが、その後、富田村を堀田三左衛門尉に与えることを記した天正14年10月4日付「豊臣秀吉朱印状」(尼崎市立歴史博物館所蔵)により、1586年(天正14)が初見年代として確認された。
村の大部は元和年間(1615~1624)伏見奉行門奈助左衛門宗勝の知行所であった。1626年(寛永3)大坂城代武蔵国岩槻藩阿部氏(正次系)の領地となり、1648年(慶安元)には大坂定番上総国飯野藩保科氏の領地となり明治に至った。小部は1598年(慶長3)旗本大島氏(光義系)の知行所となるが、1637年(寛永14)大島氏(光義系)絶家により幕府領となる。1694年(元禄7)老中の武蔵国忍藩阿部正武(忠吉系)領地となったが、1823年(文政6)阿部氏の白河移封にともない幕府領となり明治に至った。村高は「慶長十年摂津国絵図」に515.883石、「元禄郷帳」に503.425石、「天保郷帳」に503.507石とある。三ツ又井組に属した。氏神は船詰神社〔ふなづめ〕(近世には船詰大明神社)、寺院は浄土真宗本願寺派善念寺。
1889年(明治22)以降は園田村、1947年(昭和22)以降は尼崎市の大字となった。1961年の町名改正と1966・1977年の土地区画整理により東園田町の一部となり、富田という地名は消滅した。