1660年代

寛文5年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  年表:

  世紀: 16世紀 - 17世紀 - 18世紀

  10年紀: 1630年代 1640年代 1650年代 - 1660年代 - 1670年代 1680年代 1690年代

  各年: 1660年 1661年 1662年 1663年 1664年 1665年 1666年 1667年 1668年 1669年


  1660年から1669年までの10年間を指す。

1660年代の年表

  • 1660年(万治3)
    • 6月19日 - 尼崎藩主青山幸利は、前日の落雷で破損した大坂城へ普請奉行以下の家臣・人足の派遣を命じた。
    • この年 - 尼崎藩は、公事訴訟の訴状提出先、証人の偽証罪、高利の取締りなど9か条の覚を触れた。
  • 1662年(寛文2)
    • 5月1日 - 西日本一帯に大地震がおこり、尼崎城の天守が傾き多門櫓・石垣などが破損した。東武庫村が全焼した。
  • 1664年(寛文4)
  • 1665年(寛文5)
    • 1月1日 - 落雷による大坂城天守閣の炎上にさいし、尼崎藩は侍30騎ほか300人余に火消し道具をもたせて派遣した。
  • 1666年(寛文6)
    • 5月26日 - 青山幸利は、丹後国宮津藩京極高国の所領没収を伝える上使として尼崎を出発した。
  • 1669年(寛文9)
    • 5月1日 - 出屋敷の地割りが始まり、この月中に完了した。
    • 5月18日 - 七松村は、同村の用水溝に西難波村が大勢で狼藉を加えたとして京都町奉行所へ訴えた。
    • 9月4日 - 大井組藻川川口に設けた堰をめぐって三ツ又井組7か村・富島郡19か村が起こした水論に京都の所司代・町奉行の裁定が下され、大井組村々の頭取には入牢、その他村々には過料が申し渡された。
    • この年 - 太布脇新田の検地が行なわれ、道意新田と改められた。
    • このころ - 尼崎城下の町人の人口は1万4,089人、家数は1,424軒であった。
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