専売制

せんばいせい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  尼崎藩における専売制の試みは、松平時代に3例みられる。鶏卵の専売制、名塩紙専売化の試みと、西播磨飛び地の木綿専売制である。1838年(天保9)城下の町人ら4人が領内(摂津・播磨)の鶏卵の一手買集めを願い出て許された。戸数30軒の村では一つがい、50軒の村では二つがい、100軒の村では四つがいの鶏を飼わせ、一つがいにつき月に卵4個を上納させる計算で、上納卵1個につき銀1分〔ふん〕を藩に上納する。このような条件で4人が藩指定の鶏卵方支配人となり、領内産鶏卵の専売権を得たのである。上納銀1分につき3厘は鶏苗育成に宛て農民に鶏を無料で与えた効果もあってか、1840年には、本役人半役人1軒ごとに一つがいを飼わせ、月に2個の上納代として銀2分を農民に納めさせる制度に変わった。しかし飼鶏の強制拡大には限度があり、鶏を飼わず銀のみ上納する者が増加した結果は、延納・不納といった農民の抵抗を生み、1846年ころには廃止となってしまった。名塩紙を対象とした専売制の動きは1850年(嘉永3)に現われた。まず藩は原料雁皮の仕入れの独占権を握り、紙の専売化を進めようとした。翌1851年には米価高騰による名塩紙の不況に乗じ、大坂・京都へ出す紙は尼崎で藩の改印を受けること、大坂への振り売り分は大坂の尼崎藩蔵屋敷に回送し蔵物として入札することを提案した。さらにその修正案も出したが、その都度村方ないし漉屋仲間から反対にあい、結局専売化は成功しなかった。晒木綿の専売制は1851年赤穂郡上郡村の商人によって集荷し、藩交易方が管掌して江戸に送る形で始まったが、翌年交易方の廃止にともない指定商人による専売制に切り替えられた。1853年異国船の渡来による江戸の混乱で衰退した。領民に対する藩権力の相対的弱さと、大坂の株仲間機構の支配に押されて、尼崎藩は摂津の領域では有利な綿・菜種などを専売対象となしえず、播磨の飛び地でいささかの成功を収めたにとどまった。

執筆者: 八木哲浩

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