小学区

しょうがっく
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  学制では1小学区は人口600人を基準とし各区に1小学校を開設すると定められたが、この規定通りには直ちに実現できず、一九区制の各行政区が事実上小学区となった。その後学校の増設にともない1877年(明治10)12月兵庫県下の摂津5郡を67学区に分け行政区と独立した学区が整備された。市域では武庫郡地区が第25・26番の2学区、川辺郡地区は第29~34番の6学区(猪名寺のみ伊丹町の第36番学区)となり、各学区に1校ずつ(一部は2校)開設された。ただし尼崎町別所村・大物村は第29・30番連学区として例外的に6校が存在した。1882年2月学区改編があり、武庫郡は9学区、川辺郡は22学区となり、市域の川辺郡地区は猪名寺を除き第3~8番学区となった。ついで、1884年5月市域の大部分が第1番学区、市域の一部分と伊丹などの地域とが第2番学区となる大学区制となったが、さらに1886年12月には戸長役場区域を1学区としてそれぞれ1校を設置し(尼崎町・別所村の戸長役場区域はあわせて第1番学区とし、例外的に4校開設)、市域は全体で10学区となった。ここに学区と行政区がほぼ一致したが、町村制施行の翌1890年、町村が1学区となりそれぞれに中心校が1校設置された。事情により分校・分教場が設置されたが、教育行財政は町村単位となり、小学区と行政区は完全に一致することになった。

執筆者: 山崎隆三

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