小森純一

こもりじゅんいち
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1847年(弘化4)9月20日 - 1936年(昭和11)1月12日

  もと尼崎藩士で小森燐寸製造所の創設者。父は元高(維新前の禄高)50石の中層の藩士小森衛。1880年(明治13)県より士族授産資金の賃下げをうけてマッチ製造を企て、翌年平岡・吉岡両人とともに資本金1,300円の慈恵社を別所村に設立し、苦心の末その製造に成功した。当時国内で禁止されていた黄燐マッチが主力製品で主として北清(華北)に輸出した。しかし1889年経営難で慈恵社は解散し小森単独の共拡社として存続、1891年燧豊火柴廠と改称し、同時に5,091円に増資さらに翌年9,000円に増資して工場を増設、1897年小森燐寸製造所と改称した。1889年から1897年までの間に従業員70人から420人に、生産高は400トンから2,552トンとなり、士族授産事業として成功した県下でも数少ない事例の一つである。1895年町会議員に一級議員として当選して以来連続当選、1896年6月2日から1898年2月7日まで尼崎町長を務め、また市制施行後初代の市会議長となり市会のなかに小森派といわれる勢力をきずいた。1886年洗礼をうけてプロテスタントとなり1892年尼崎伝道教会(のち尼崎教会)を設立した。1896年別所村に遊廓設置問題がもち上がったとき嗣子貞次郎が編集責任者の『琴陽雑誌』に反対の論陣をはりその実現を阻止した。尼崎のいま一つの有力なマッチ工場である小嶋燐寸の小嶋敏衛は純一の従兄弟(いとこ)にあたる。1921年(大正10)新設の尼崎信用組合の初代組合長となる。

執筆者: 山崎隆三

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