小田村・尼崎市合併問題
おだむら あまがさきしがっぺいもんだい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
小田村南部の工場の発展による都市化の結果、すでに大正初年以来両市村の合併気運が生じており、1916年(大正5)の尼崎市の市制施行にさいしては小田村側から合併の申し入れもなされたが、そのときは実現しなかった。その後も特に小田村南部には合併の希望が強かったが、都市化した南部の賛成論とまだ農村的であった北部の反対論との対立のため合併運動は中絶していた。1926年になって合併促進論の一根拠であった尼崎市の上水道の供給問題について両者の合意が成立し、小田村への給水が1931年(昭和6)開始された。しかし道路・水路の整備、伝染病院、汚物処理などの都市問題の解決が小田村単独では困難であるため合併の必要はたかまり、さらに県当局の合併勧奨もあって1932年ころから合併の動きが表面化したがなお複雑な利害が容易に一致しなかった。1935年6月前宮崎県知事などの官界の経歴をもつ有吉實が尼崎市長に就任したことは、合併推進の転機となった。同年8月小田村会は解消合併の建議案を多数決で可決し、翌年2月合併覚書が調印され、4月1日をもって尼崎市・小田村を廃し、その区域をもって尼崎市が設置されることになった(解消合併)。5月3日全市を一選挙区として市会議員の選挙が実施されて、新市会で有吉市長が再選された。8月1日尼崎市章に小田村の小の字を組合わせた現行の市章が制定された。