1729年(享保14)にはすでに大阪湾を泉州の海岸近くまで出漁していた尼崎の打瀬〔うたせ〕網漁船をいう。1734年(享保19)に200艘余と記録されている尼崎の貝漕船は鉄桁つきの底曳き網漁船で、貝だけでなく海底の小魚までさらっていた。当時の泉州灘では小船による磯辺の漁業が中心であったが、尼崎漁師は30石積みほどの漁船で岸から1里半ほどの沿岸部にまで入り込み魚の巣を荒らすと地元の漁師と紛争が生じた。また、尼崎船のざこ(雑魚)取引をめぐって泉州の魚問屋・出買人・漁民の紛争がおきている。
執筆者: 地域研究史料館
参考文献
- 野村豊『近代漁村史料の研究』 1956 三省堂出版
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