古河電気工業大阪伸銅所
(尼崎伸銅より転送)
1920年(大正9)3月の株式暴落は戦後恐慌のはじまりを告げるものであったが、翌4月には古河電気工業(株)が、つづいて7月には尼崎伸銅(株)が設立された。いずれも、古河コンツェルンが巨額の損失を抱え込むことになった大連事件に対応する、精銅・伸銅部門の再編策であった。このうち古河電気工業は、横浜電線製造の商号変更と増資により設立されたものであった。
尼崎伸銅は、古河鉱業が尼崎で起業中の製管工場を現物出資し、老舗の大阪電気分銅(株)との折半出資(300万円)で東新城屋新田(現東向島東之町)に設立された。大阪電気分銅は1893年(明治26)の創業で、大戦中のブーム期に好業績をあげ住友伸銅所とならぶ位置にあったが、古河鉱業が厘銭銅精練所を現物出資して参加、1917年には古河が、出資比率26%の筆頭株主になっていた。
慢性不況のもと、尼崎伸銅は業績不振をつづけたが、日本伸銅と改称した大阪電気分銅とともに、1934年(昭和9)4月1日に古河電気工業に合併、それぞれ月産500トン余、従業員330人の尼崎伸銅所、同じく880トン、560人の大阪伸銅所となった。つづいて、両事業所を統合して、銅やアルミ、合金など月産3,000トンの生産を目指して新工場建設が計画された。そのため1936年大庄村字道意の甘藷畑16万5,000m2を入手、4,000トン水圧プレスほか有数の設備を備えた関西伸銅工場(建屋約3万6,000m2)を新たに建設した。1938年11月1日に完成したこの新工場に尼崎伸銅所と大阪伸銅所を統合し新たに大阪伸銅所を設置、東新城屋新田の旧尼崎伸銅所工場は廃止された。
この工場は、空襲の被害はほとんど受けなかったが、1945年9月18日の枕崎台風では高潮によって大きな被害を被った。終戦時の従業員数は約4,100人であった。
尼崎伸銅設立年月は、同社発行パンフレット(あまがさきアーカイブズ所蔵)によれば1920年(大正9)6月である。上記の7月設立は7月10日開催の創立総会の日付を採用しており、典拠は『財界三十年譜』中巻(実業之世界社、1920年)である。
上記の工場とは別に、1920年(大正9)5月1日から1937年(昭和12)12月1日まで、中大洲(新城屋新田、現東向島西之町)に設置された大阪電池製作所が存在していた。この電池製作所の起源は、1914年4月に横浜電線製造大阪工場に隣接して設置された付属電池工場にさかのぼる。鉛蓄電池の試作から始まり、潜水艦用の軍需増大などに応じて1918年12月には工場設備を拡大し、本格的な生産を開始した。1920年2月に日本電線製造が設立され、横浜電線製造大阪工場が日本電線製造に現物出資された際、電池工場のみが横浜電線製造に残り、同年4月22日に同社の商号変更と増資により古河電気工業が設立されると、同年5月1日に古河電気工業大阪電池製作所と改称した。1937年12月1日、横浜市保土ヶ谷に電池製作所新工場が完成し、大阪電池製作所は廃止された。
参考文献
- 『創業100年』 1991 古河電気工業