尼崎大気汚染公害訴訟

あまがさきたいきおせんこうがいそしょう
尼崎公害裁判より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1988年(昭和63)12月、尼崎市の公害病認定患者とその遺族ら483人が国、阪神高速道路公団と、電力、鉄鋼など企業9社(尼崎市内6社、大阪市西淀川区内3社)を相手とし、大気汚染物質の排出差し止めと総額約18億円の損害賠償を求めて神戸地裁に起こした集団訴訟。1988年3月の改正公害健康被害補償法施行により、大気汚染指定地域41か所(尼崎市を含む)の全面解除と公害患者の新規認定の打ち切りが実施された。しかし尼崎市では、工場群からの煤煙と、国道2号国道43号阪神高速大阪西宮線などの自動車の排気ガスで大気汚染が深刻化し、公害病認定患者は1970年12月からの累計で1万1,208人、死者1,695人に達した(1988年11月末現在)。そして、自動車排気ガスを中心とした二酸化窒素や浮遊粒子状物質の測定値は悪化の傾向を示し、大気汚染はひどさを増していた。本訴訟は、西淀川公害訴訟など各地の大気汚染訴訟とともに、後退ぶりの目立つ国の環境行政に転換を迫るものとなっている。第1回口頭弁論は1990年5月18日、1995年現在公判続行中である。

執筆者: 小山仁示

  1995年12月4日、原告15人(うち遺族1人)による2次提訴が行なわれた。

  1999年2月17日、解決金支払いと今後の公害防止対策などを条件に、被告企業との間で和解が成立。また2000年1月31日の神戸地裁判決が、一定条件のもとにおいて道路公害と健康被害の因果関係と被告(国・公団)の責任を認め、被害差し止め(道路供用の差し止め)を認めたのを受けて、国・公団との間においても、控訴審における大阪高裁の勧告により2000年12月8日に和解が成立した。和解にあたり、国・公団による排出ガス削減・大型車交通規制をはじめとする諸施策の検討・実施を条件に、原告団は差し止め請求・損害賠償を放棄した。その後、原告団が和解条項の「大型車の交通規制」条項履行を2002年10月15日に公害等調整委員会に申し立て、翌年同委員会が原告団の主張を認める斡旋案を提示するなど、抜本的対策の実施を求める原告団と国・公団の間で協議が続けた。2004年10月1日には、国道43号線などにおいて、窒素酸化物(Nox)と粒子状物質(PM)の排出基準を満たさない大型ディーゼル車の規制に兵庫県が乗り出した。2013年3月11日、原告団は国及び、公団のあとを引き継いだ阪神高速道路株式会社との協議の場である連絡会の第46回において協議終結を提案し、国側も同意したため、6月13日の第47回連絡会において国道43号の環境対策を継続することについての3者間の合意書を取り交わし、協議を終結した。提訴から30年目を迎えた2018年12月、裁判終結後に国等が進めた環境改善策が一定の成果を上げたと判断した原告団と弁護団は、解散することを決定した。

  なお、訴訟に先だって1971年6月5日に結成され、原告団の母体となった「尼崎公害患者・家族の会」が、被告企業との和解金の一部により患者の健康回復や町の再生を図るための活動拠点「尼崎ひと・まち・赤とんぼセンター」を1999年9月19日に大物町1丁目に開設(2011年6月同センター解散が決定され、2012年8月10日に同じく大物町1丁目に開設した「赤とんぼの里」が活動を継承)、2001年3月23日には「尼崎南部再生研究室」(南城内、2009年8月武庫之荘3丁目に移転)を開設した。原告団・弁護団解散後も「尼崎公害患者・家族の会」は活動を継続したが、2019年(令和元)6月30日をもって「尼崎公害患者・家族の会」と「赤とんぼの里」を解散した。

執筆者: apedia編集部

参考文献

  • 『子や孫に青い空きれいな空気を-道路公害の根絶をめざして 尼崎大気汚染公害訴訟 神戸地裁判決の記録-』 2000 尼崎公害患者・家族の会ほか
  • 『子や孫に青い空きれいな空気を-尼崎道路公害訴訟和解解決の記録-』 2001 尼崎公害患者・家族の会ほか

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