尼崎合戦

あまがさきかっせん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  後醍醐天皇が挙兵して元弘の乱が勃発すると、播磨から攻めのぼった赤松円心(則村)は、1333年(元弘3・正慶2)閏2月23日、尼崎において鎌倉幕府方の六波羅探題の軍勢と合戦してこれを破り、久々知・坂部などに陣し、豊島〔てしま〕郡の瀬川(現箕面市)に拠る六波羅勢と対峙した。戦局が膠着するなかで、3月10日、阿波守護小笠原氏の率いる六波羅の援軍が、尼崎に上陸して赤松勢の背後を急襲したが、赤松勢は激戦のすえこれを撃破して、山陽道を京都へ攻めのぼった。尼崎は要衡の地であったため、その後も争奪の的となり、1352年(正平7・文和元)末から翌年7月ころまで、石塔頼房らの率いる南朝軍と足利方の摂津守護赤松光範軍との激戦が展開された。また、15世紀中葉の応仁の乱でも、尼崎の若衆が西軍の大内政弘に抵抗したため、焼打ちにあい、女子供まで殺戮されるなど、しばしば戦乱の地となって被害を蒙った。

執筆者: 田中文英

参考文献

  • 高坂好『赤松円心・満祐』 1970 吉川弘文館

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