尼崎城堀浚え普請
あまがさきじょうほりさらえぶしん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
土木工事の一つ。城の堀底に土砂が流入して溜まると不都合なため、その堀浚えをする必要があった。尼崎城の古い例では、1731年(享保16)出雲屋八兵衛・水堂屋嘉兵衛・姫路屋新兵衛が2,000人の人足を請け負ったという。1732年、1733年にも同じ3人が2,000人、5,000人の人足を請け負い、1734年には出雲屋八兵衛・水堂屋嘉兵衛と別所村かも(加茂?)忠兵衛の3人が瓦林組割り付けの浚え普請人足878人を請け負った。また1768年(明和5)新城屋新田小郡屋市郎兵衛・別所村清五郎・出雲屋久右衛門・水堂屋庄蔵が、尼崎城下・兵庫津町の町民5,000人を人足として日雇いにて差し出す手はずとなっていたことが知られる。