尼崎城築城
尼崎城が築かれたのは文献記録のうえでは二度ある。如来院文書に「永正十六年二月十七日細川高国柵于摂州尼崎築城」(永正16年=1519年)とあるのが初見で、さらに1526年(大永6)高国は諸将に命じて細川尹賢の居城を築造させて西国の支配にあたらせたという(「続応仁後記」巻一、『改訂史籍集覧』第3冊通記類)。しかし、1531年(享禄4)足利幕府の管領家相続をめぐって細川高国は細川晴元と争って敗れた。その後、年代は下って織田信長・豊臣秀吉の台頭とともに尼崎古城はその配下に置かれ、建部氏が尼崎郡代としてこれを守った。ついで大坂夏ノ陣で豊臣氏が滅亡した後の1617年(元和3)7月25日に戸田氏鉄が尼崎へ入封、同年10月14日に徳川幕府から山岡図書頭景以・戸川助左衛門勝安・村上三右衛門吉正・建部与十郎を奉行として派遣し、新しく城を築くことを命じた。これは同時期に幕府が淀城や高槻城を修築させ、明石城の築城も命じたのと同様で、畿内の要となる大坂城の周囲を固める政治的な意図によるものと考えられる。戸田氏鉄の尼崎城築造は1618年春から始められ、大物・尼崎古城を改め、周辺の寺院を寺町へ移転させて城地の規模を拡張、石垣を構築した。これが近世の尼崎城で、規模・施設の全体が成就した時期は明確ではないが、四重天守をはじめ三重・二重櫓や多門など多くの建物を備えるにいたった。
萩藩閥閲録中の「大内政弘感状写」(『尼崎市史』第4巻)に、1473年(文明5)12月7日に大内政弘方の椙社弘康が尼崎及び大物城を攻め落としたことが記録されており、細川高国の尼崎城築城以前に大物城と呼ばれる城があったことがわかる。この大物城の正確な位置や築城・存続期間は不詳であり、柵を築いた程度のものであったのではないかとも考えられる。1968年(昭和43)刊行の『尼崎市史』第2巻は、この大物城及び、高国築城の戦国期尼崎城は戸田氏鉄による近世尼崎城築城まで存続し、近世尼崎城は戦国期尼崎城の位置に規模を拡大して築かれたとしていた。その後、尼崎在住の城郭画家荻原一青が、大物の西側に「尼崎古城跡」と記す尼崎城郭図をもとに、大物城の位置を近世尼崎城の北東、大物の西側で、近世中期以降の城下絵図類には「御仏殿屋敷」「鉄砲稽古場」などと記されている場所であるとする説を発表した(読売新聞尼崎版1971年(昭和46)9月22日付記事)。この時点では、大物城とは別に細川高国が築城した戦国期尼崎城があったと考えられていたが、その後の小野寺逸也の研究(「江戸時代前期の尼崎城下絵図について(2)」『地域史研究』第11巻第3号、1982年3月)により、荻原が拠った絵図以外の近世城下絵図類においても大物の西側に「古城」あるいは「尼崎古城跡」と記すものがあり、戦国期尼崎城はこの位置にあり大物城とも呼称された、つまり戦国期尼崎城と大物城は同じ城であると考えられるとの説が提示され、現在はこの説が有力である。なお、如来院文書に「永正十六年二月十七日細川高国柵于摂州尼崎築城」(永正16年=1519年)とあり、「続応仁後記」巻一(『改訂史籍集覧』第3冊通記類)は高国が1526年(大永6)に諸将に命じて細川尹賢の居城を築造させ西国の支配にあたらせたとする。高国の築城が永正年間と大永年間の2回にわたって記録されていることについて、永正年間の築城が柵城の急造のような形のものであり、その後大永年間にある程度本格的な築城がなされたのであろうとの解釈が、『尼崎市史』第1巻において示されている。